手放した先に、いまがある | Part 2: スタンダードは、誰が決めたのか

広告は、世界の“普通”をつくる。

広告代理店で働いた経験は、Atauさんの考え方に大きな影響を与えている。広告や車のCMに登場する「家族」の形 ── 男女のカップルと、男女ひとりずつの子ども ── のような典型的なイメージが、繰り返しメディアに流れることで、いつのまにか社会の「当たり前」として人々の意識に定着していく。「(広告には)そういう大きな影響力があるっていう自覚が広告時代からあって、それが今のやり方に繋がっているのかな。やり方次第で良くも悪くもなる」。

その自覚は、SNSで発信を続ける自分自身に向けられる。綺麗なことばかりを見せることで、フォロワーに「これがスタンダードだ」と思わせ、辛い思いをさせてしまうのは本末転倒だ。過剰な消費を促す経済活動に加担することにも、抵抗がある。そうした葛藤を彼は抱える。周囲からは「丁寧な暮らし」をする人だと思われることもあるが、実際には部屋着のまま過ごし、穴だらけになってしまった服を未だに着ていることもあると笑う。

社会の中で構築されたスタンダードに対し、彼は自身のことを、「スタンダードにいたかったけどいられなかった」タイプであるという。「そのコンプレックスがあるのかなと思いますね。だからこそそのスタンダードを壊したい。」

完璧なんて、そもそもない。

Atauが日本の知人から相談を受ける際、「それは本当に自分がやりたいことなの?」「なんでそうしたいの?」という問いに、うまく答えられない人が多いと感じる。単一文化に近い環境で長く育つことが多い日本では、その問い自体にたどり着きにくいのかもしれないと彼は考える。

似た構造は、フランスにも存在するという。世界のどこでも起こりうることかもしれないが、フランスにおいて今なお優位とされているのは、白人・男性・両性愛者という属性だ。「スタンダードに近ければ近いほど、何かのきっかけで悩み出すとすごく深い悩みになってる人がいる」と彼は語る。スタンダードに近い分だけ、敷かれたレールの上をうまく進めてきた自負がある。だからこそ、そこから少しでもずれた瞬間に、「自分がやりたいことは何だろう」という問いに、深く苦しむという。

「完璧って絶対ないじゃないですか。"こうであるべき" というものとのズレがどこかで絶対みんな生じてくると思うんですよね。その時に、これでいいんだっけとなる」。自身の経験からも、「スタンダードになりたいと思ってる人も、本当になりたいとは思ってないと思ってます」と断言する。

Atau自身は、「それは本当に自分がやりたいことなのか」「なんでそうしたいのか」を考えることばかりだという。日本にいたころ、スタンダードに近づきたくても近づけなかった苦しみが、その問いを考えるきっかけをくれた。「スタンダードから外れるからこそ、なんで自分は違うんだろうとか、なんで違うことをやってるんだろうという考え方・疑問が、自分の中にずっとあったと思う。それで癖がついたっていうのはあるかもしれないですね。」

基準は、ひとつじゃない

Atauは、現代社会のスタンダードを形づくっている、「努力すれば必ず報われる」というメリトクラシー(努力主義)に異議を唱える。成功は本人の努力だけで決まるという考え方は、家庭環境や経済的背景、運といった、本人にはコントロールできない要素を見えなくしてしまう。「努力できるだけの土台がある人が、そう言っているだけなんです」と彼は指摘する。

恵まれた環境にいる人ほど、その恵まれ方に気づきにくい。だからこそ、自分が努力できる土台の上に立っていることを自覚し、それを他人に強いないことが重要なのだという。

その視点は、学校や社会の仕組みそのものへの疑問にもつながっていく。「学校の仕組みとか、社会の経済の仕組みって、努力主義の典型例で、点数とか生産性で測るわけじゃないですか」とAtauさんは言う。授業に集中できない子どもに病名がつけられていくのも、その子ども自身に問題があるのではなく、今の経済社会の仕組みに合わないというだけなのではないか —— 彼はそう問いかける。

その視点は、障害や精神疾患の定義にまで広がっていく。「障害者とかもそういう風に考えると、何を持って障害なのか。統合失調症とか精神的な病気の方とかも、稼げないから社会の経済に貢献しないから、じゃあ病気ってことにしようってなるのか。そういうところを考えると、基準が一つしかないんじゃないかな。」

働けるかどうか、稼げるかどうかという単一のものさしだけで人を測る社会。その基準そのものを多様化させていく必要があると彼は考える。彼にとってInstagramでの発信は、そのスタンダードの一枚岩を少しずつ崩していくためのツールでもある。壮大な宣言としてではなく、日々の発信の積み重ねとして、少しずつ。

「普通」は、自然に生まれるものではない。誰かが、少しずつ作ってきたものなのだ。

わからないまま、生きている」へつづく…

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