手放した先に、いまがある | Part 3: わからないまま、生きている

悲しみは、終わらせるものではない

フランスに渡ってまもなく経験した、6年以上寄り添ったパートナーとの別れは、Atauにとって感情との向き合い方を大きく変える出来事だった。頼れる人もなく、新しい言語にも慣れない土地で過ごした、その精神的に不安定な時期は、「泣いたとしてもその場で誰かが心配になるわけでもないし、何も変わらないし、だったらもう別に感情を我慢しなくてもいいか」という考え方への突破口となり、後の彼の「自分で全てをコントロールできないということを受け入れる」姿勢の土台になっている。

悲しみや怒りといったネガティブな感情は、決して悪いものではなく、時間をかけて消化していくべき自然なプロセスなのだと彼は考える。社会や教育はしばしば、悲しみをできるだけ早く消し去るべきものとして扱いがちだが、そうしてしまうことは、かえって将来に良くない影響を残す。「熱が出てるから下熱剤ってすぐやると、風邪って悪化することがあるじゃないですか。それと同じで熱が出てるっていうことを把握した上である程度それに働かせる。体が頑張ってるんだから、もうそのままにしておこうっていう感覚かな。でもその熱が出たきっかけは何かといったとき、ずっと寒い格好してたからとかであれば、そこは改善できるから改善するべきだと思うんですけど、熱はコントロールできないっていう風に考えて、あんまりそこにこだわらないようにする」。向き合う対象は、感情を引き起こした原因であり、感情自体はただありのまま把握すればいい。悲しみは、終わらせるものではなく、ただ一緒に過ごす時間なのかもしれない。

もうひとつ、彼の記憶に強く残っているのが、二十歳すぎに経験した愛犬の死だ。小学生のころ不登校を経験し、心理カウンセリングに通っていた彼は、犬が亡くなったとき、当時のカウンセラーから「別れの時間を大切に過ごしてください」という言葉をもらったという。その一言は、今も彼の中に生き続けている。

人生は、コントロールできない。

努力主義への疑問は、そのまま「運」というテーマにもつながっていく。生まれた国や家庭環境など、人生の多くの部分は、自分の意志だけでは決められない。それでも社会は、まるですべてが自己責任であるかのように語りがちだ。Atauは、そうした語り方に異を唱える。

東日本大震災やコロナ禍など、死を身近に感じる出来事を数多く経験してきた世代であることも、彼が「死」について考える機会を増やしてきた。生きることに意味や目的を持たせようとすること自体が、人間の「コントロールしたい」という欲求の表れなのかもしれない。彼はそんな視点を語る。時間という概念すら、人間が認識できる範囲の中でつくられたものにすぎず、過去に自分がそこにいたという確信でさえ、記憶というかたちを借りた曖昧なものでしかない。

木々は、自分が森を支えていることを知らないまま、酸素を生み出し、生態系に貢献している。人間もまた、自覚しないまま、何らかの役割を果たしているだけなのかもしれない。そう彼は考える。だからこそ、コントロールしようとする意識をすべて手放し、今この瞬間の感情を大切に生きることが、もっとも豊かな生き方なのではないか。自分自身の無力さを自覚したうえで、それでも自分がやりたいことに素直に従うこと。それが、彼がたどり着いた生き方の核にある。

最後に、出会った人にどんな印象を残したいかと尋ねられたAtauは、こう答えた。理想は、また会いたいと思ってもらえること。けれど、たとえ「二度と会いたくない」と思われたとしても、それは決して悪いことではないという。彼が本当に避けたいのは、何の感情も残さない「無関心」だ。

木は、自分が森を支えていることを知らない。それでも、たしかに支えている。寝たいときに寝て、食べたいときに食べ、自分がやりたいことに素直に生きる彼の言葉もまた、そうやって誰かの中に残り、社会を支えていくのかもしれない。

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